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「連珠を世界に!」ロマンの旅 16

国際普及の旅 スウェーデン第3弾 1986

このレポートは、前回に報告したオランダのあとに訪れたスウェーデンとの交流記である。 当時、発表の機会を与えられていた『夕刊フジ』の連載を追っていこうと思うが、13回の連載を小さくまとめるにはどうしてもムリがある。そこで西園ースンドリング戦が我々の思いを象徴しているかと思えるので、この3回分をカットなしで紹介しよう。

ウプサラ市とチームマッチ

夕刊フジ
8月7日、私たち一行はアーランダ空港に降り立った。そこには昨年来日したヨンソン二段とパルムグレン初段、今回のシリーズでディレクターを務めて下さるアールマークさんが笑顔で出迎えて下さっていた。
また別ルートでスウェーデン入りした小磯重正五段ともここで合流したのである。
早速、ヨンソン、アールマーク両氏の車に分乗して、最初の目的地・ウプサラ市へ向かう。やがてアンダーソン二段、アルカボ3級らが次々とやってきた。「珍しいことに、今日は連珠を1局も打たなかった」(河村四段)日で市内観光である。
夕方になるとスンドリング三段らが加わり、にぎやかに夕食を囲む。

明けて8日、朝10時からウプサラ市とのチームマッチである。日本にもファンの多いスンドリング三段と5月に行われたスウェーデン選手派遣争覇戦(優勝者を招待派遣)で見事に優勝した西園四段の一戦をを取り上げてみた。
白12が力量を示す確かな一手。続く14も確かな一手。黒の打ち方がなかなか難しい。

ところで、前回の北欧シリーズで「対局中のスンドリングのこわいような気迫と、対局後のリラックスした姿に感心した。およそ対局中の笑顔ほどくだらんものはない」と記しているが、今回はスウンドリングはもとより、どの選手にもあてはまったものではないかと感じたものだ。

指導を超えて挑戦者に!

夕刊フジ
親善チームマッチとあって、私たち全員、ウプサラ700年を祝う記念のTシャツを着て対局に臨んだ。だが、ウプサラチームの選手が気迫をこめて対局に臨んでいることを察知しており、心してかかるように伝えておくのも忘れてはいなかった。
彼らは、私どもとの対局を「指導を受ける」時機を終え、「倒してやろう」というチャレンジャーになっていたのである。
1回戦3?2となり、ドキリとさせられたが、2回戦は5?0のパーフェクトでホッと一息。本局は3回戦の1局である。

黒15?21ははたしてどうであったか。15は19とタタいておきたかったし、17では参考図の構想がよかっただろう。白20がきてからの黒21では面白くない。
西園四段の苦心の着手が続くが白24など急所に防ぎがきて、ジリジリと白がよくなっていく。白32となっては攻守ところを変えることになった。西園四段の苦戦である。

ところで、今回の親善戦を通じて、スンドリング三段の筆舌につくしがたい歓待ぶりがあった。これを知るのは2日後であった。明日に記しておきたい。

父の死を越えた歓待…

夕刊フジ
白34からスンドリング三段の腕のみせどころ。36と右辺を用心させておいて、38と好手順に戻す。黒39は苦心の防ぎであったが、つづく41が大失敗であった。
西園「41は44止めでした」
白42からはアッという間のヨミ切り。スンドリング三段の攻めはとても鋭い。ヨミも深い。あとは作戦の幅であろう。

結局、この対抗戦は日本チームが17勝7敗1分けで快勝した。だが、2年前の対ヨンチョピング28勝4敗、対ストックホルム15勝1敗と比べたとき、彼らの成長をまざまざと知ることができる。

ところで、スンドリング三段の我々に対する歓待の深さをぜひ知っておいていただきたいと思う。このことを知ったのは、スットクホルムサマートロフィーの大詰め(本局の2日後)になって分かったことである。彼はいつにない鈍い敗戦を繰り返していた。

西園「彼があまり不調なので、どうしたの? と聞くと、会場から外へ出て、昨日、父が死んじゃって…という。一瞬ドキッとした。よく見ると目が真っ赤。きっと一睡もしていないのだろう。しかし日本からみんな来てくれているし、みんなと話をしているのがとても楽しいので、対局だけは全部するといってくれた。僕は何もいえず、It's sad…but… thanks…を繰返していた。その時の彼の目はいまだに忘れられない。
その彼が、来年はぜひ日本へ行きたい。そしてその時は僕の家に泊まりたいと言ってくれた。非常にうれしい。
They are my good frinds」

ストックホルムサマー大会始まる!

夕刊フジ
この項は「ロマン14」で報告しているのですべてを割愛し、次回は幅広い活動に機会を与えていただいた「スウェーデン日本人会」との交流の模様を紹介したい。


本稿は1986年8月『夕刊フジ』紙に連載されたものです。