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連珠を世界に! ロマンの旅47

第5回連珠世界選手権サンクトペテルブルク大会 レポート

第5回連珠世界選手権サンクトペテルブルグ大会でなんと私(早川)が大会会長を務めることになった。
いきさつはこうである。

さかのぼること5年。第3回連珠世界選手権アルイェプログ(スウェーデン)のプレ大会の1992年8月のことである。
まったくの単独行動でノルウェイの国境に近いアルイェプログに降り立ったのだが、途中、ストックホルムに搭乗機のエンジントラブルでモスクワに緊急着陸し、第1の目的地であるストックホルムに着いたときは予定を6時間も遅れて、夜の11時半頃であった。
この6時間遅れの間、一便到着するごとにずっと出口に目を光らせて、お待ちくださった方がある。日本人会会長(当時)の鳥本範さんである。このときの感動は忘れられないが、これについては機会があれば記してみたいと思っている。

本題に戻して、プレ大会の途中でRIF(国際連珠連盟)の国際会議がもたれたときのことである。
ほとんど英語を話せない、聞けない私が国際会議なるものに出席しているのだから、大変な重圧であった。

議案の中心は、第5回世界選手権をどの国で開催するかである。
京都~モスクワ~アルイェプログ~タリン(エストニア=この段階で次回開催国に決まっていた)の次である。

候補にあがったのは、当然のように、日本(できれば京都つき)である。
私が「ディフィカルト」と言おうものなら、あちこちらから「ホワイ?」と返ってくる。なんとか伝えようとして「資金がない。人材もいない。」と言っても、「日本は金持ち国だ。」「人材も我々と比べて揃っている」といって到底聞き入れてくれない。
英語どころか、日本語でさえ難しい回答をうまく伝えられるわけがない。1時間近くにわたって堂々巡りであった。

結局、この問題は継続審議となり、この会議では第1候補を日本として、日本からの正式回答を待つ。他の国から立候補があれば申し出ることで散会となった。
当時、理事長ではない私にはこれ以上の進展はのぞむべくもない。1年経過しても事態の解決は見当たらない。
当時の連珠界は、西高東低。いかに世界普及に向けて意気軒昴な京都でもさすがにきつい。とても色よい返事をできそうにもない。

1993年8月、アルイェプログ大会で私の出した妥協案は、「日本での開催はムリであり、我々は残念ながら、皆さんの要望を受け入れることはできない。それでは皆さん納得できないであろうから、私が責任を持って、開催国に対し50万円の基金を提供する。」というものだった。
50万円はたいした金額ではないように見えるが、国によっては開催するのに十分な金額にもなり得るわけである(あった)。

これを受けて名乗りを上げてくれたのがサンクトペテルブルグである。そして主催者は、私を大会会長に推挙してくれたというわけである。

私は現地につくまで詳細を知らされておらず、てっきり大会名誉会長くらいの名誉職だと思っていたら、開会挨拶から、参加者への表彰など重要なところで指名され、面食らったものである。でも、連珠推進国の代表(日本連珠社理事長にも就任していた)として、有難いことだと心底思った。

余談であるべきが随分長くなってしまった。こういうことも連珠の国際発展の歴史にはあったことを知っておいて欲しい、と思って記してみた。

大会報告を各誌紙からレポートしよう。

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