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「連珠を世界に!」ロマンの旅 24

ウラジミール(ソビエト)へ第1回世界戦の参加を要請

1988年8月、連珠国際連盟(RIF)は設立された。直後の10月、スウェーデンと並んで組織的な発展を遂げるソビエトの現状の視察と第1回世界選手権の勧誘を兼ねて、ウラジミールへ飛び立った。
今回はレポートと第1回世界戦を前に懸命に続けるアッピールからお伝えしよう。

予想を上回る選手層
ソビエト連珠界      早川嘉美

1988.11.2『京都新聞』より

予想を上回る選手層/京都新聞スウェーデンと並んで組織的な広がりを見せるソビエトの連珠界を自分の目で確かめたいと思ってから数年たつ。ペレストロイカ(改革)の影響も手伝ってようやく実現し、国際普及にともに携わってきた高校教諭の達富弘之二段(44)、京都大大学院生の河村典彦七段(23)とかっての公国の首都で、現在州都であるウラジミール市を訪れた。

直接の目的は、10月24日から5日間行われた第4回ソビエト連珠チーム対抗戦(都市対抗)の見学をかねた連珠事情の視察と、来年8月に京都で催す第1回連珠世界選手権(連珠国際連盟=RIF=主催)の勧誘である。

22日、モスクワに降り立った私たちを迎えたのは、ソビエト連珠界の母といわれるウラジミール・サプロノフ氏ら。サプロノフさんとの出会いは11年前。当時、ソビエトには「2人の愛好者しかいなかった」(同氏)が、筆者とのわずか1局の対局が彼を連珠の魅力に引き込ませ、各誌紙に「連珠を打とう!」の大キャンペーンが始まった。

以来、ファンが増え、わずか10年で1万人の組織に発展した。同国にはもともと下地となる五目並べ(クレスチキノーリキ)があり、わが国の事情とよく似ている。少し違うのは、この両者の間に“新五目”といわれる確立されたルールが存在すること。どうやら先手必勝に近いらしく、連珠の面白さがわかるにつれ、どんどん移行する人が多いという。今回の訪問でその加速度が増すだろう。

翌23日は指導対局。河村七段と筆者にどっと人が集まる。指導といっても「新手(作戦)を教えてほしい」と「自分の研究を見てほしい」が主であった。
サプロノフ氏によると今回は14チームと少し寂しいが、ファンはソビエト全土にわたっており、シベリアのチュメン市では20の連珠クラブがあるという。

翌日から試合開始。エントリーは1チーム5人で、うち4人が対戦する。われわれの感覚では、補欠の選手が指導を受けに来ると思いがちだが、そうではない。歴代チャンピオンが次々に挑戦(指導対局ではない)してくる。筆者は3勝2敗が精いっぱい。河村七段が5勝1敗でどうやら面目を保った。この対局を通じて感じたのは、広範囲な新手研究を手掛けているということであった。

チーム対抗戦は、5段、6段(ソビエト段位)をそろえたモスクワA・Bの争いと見られていたが、2日目を終えたところでトップに立ったのは、海外参加のスウェーデンチーム。われわれは日程の都合でここで辞することになったが、このスウェーデンの最近の動きが大変興味深い。
ここ数年、ソ・ス両国は交流を続けているが、常にスウェーデンの惨敗に終わっている。それがどうだろう。日本が加わった8月のストックホルムサマートロフィと今回、ほぼ互角の成績を残し出したのである。どうやら日本の参加が無言の後押しになっているようだ。

なぜこれほどソビエトに連珠が根付いたのだろう。娯楽が少なく寒い国で室内ゲームが適していることもあろう。世界に誇るチェス連盟がバックアップしていることもあり、アレクビッチ・チェス連盟会長に「連珠はわが国でチェスに次ぐ組織になるだろう」と言わせるのも大きい。しかし最も刺激的なのは、ロジカル(論理的)にあるという彼らの姿勢だ。
従って、彼らの対局は常にロジカルの追及にある。つまり、対局中のアドバイス、助言はもちろん厳禁だが、打ち掛けの対局は仲間と一緒に調べてもよい。日本ではおおよそ考えられないことだ。国際普及の発展は連珠の対局そのものを変えることになりそうである。

ところで、ソビエトが一段アップするには、プロの誕生にある。アンドレー・ソコルスキー・ソビエト連珠連盟会長は「できるだけ早い機会(1,2年)に、プロフェショナルをつくりたい」と熱っぽく話す。どうやらそのために一番手っ取り早い方法が、来年8月の世界選手権を制することにあるようだ。その半面、「日本のトップ(中村茂名人)の出場なしでは、真の世界チャンピオンにならない」(同会長)とくぎを刺された。まったく筋金入りの構想である。

ともあれ、来年8月にソ・ス両国からそれぞれ10人の来日が決まり、アメリカからいち早く出場宣言が届いた。本当に意義ある訪問であったと喜んでいる。同時に来年8月に向けて気を引き締めている。

(連珠国際連盟副会長、連珠八段)

ソビエト連珠界訪問 余談

視察を終えてそのまま帰国の途につく予定でモスクワ空港に送っていただいた。同行してくれたのは、サプロノフさんとノスフスキーさん(連盟秘書)。今回の訪問はすべてこのお二人に仕切っていただいた。空港について「ありがとう。あとは自分たちでやるよ」というと、「ここは日本ではない。」といって離れない。どういうことかな、と思っていると、まもなく航空券がキャンセルされてしまっていることが判った。さあ大変!

キャンセル待ちを手配してもらったが、1枚しか手に入らない。スケジュールの詰まっている達富さんが帰国することになり、英語で会話できる河村くんはノスフスキーさん宅へ、私は日本語で通じるサプロノフさん宅に泊まらせていただくことになった。
当時のモスクワで個人宅に宿泊するなど異例中の異例だったようだ。

サプロノフさん宅に着くと既に連絡がしてあって、お子さんが大喜びで出迎え、自分の部屋に案内してくれた。そこには日本製カレンダーがびっしり。いかに日本通であるかが判ろうというものである。習っている国語の教科書(多分?)を広げてここを見よ!という。どうやら、日本の昔話、「雪女」のようだった。
もちろん、奥さんの手料理で歓待を受け、本当に楽しい一夜となった。

明けて翌日。休暇をとって、美術館に案内するという。ところが残念なことに休館日。ここからがすごいことになった。

「ちょっと待て。交渉してみる」といって館長を呼び出し、延々と交渉を始めるではないか。時々、ウインクをして「我々のためにわざわざ日本から来たスペシャルゲストだ、と言って交渉している」という。さすがにムリ難題らしく、ラチがあきそうにない。
もういいのになぁ?と思っていると、電話が鳴り、館長がなにやら話し出したが、要領を得ないらしく、うまく通じないらしい。すると、サプロノフさんが変われ、という仕種をみせ、電話に出るとペラペラと話し出したではないか。時々、館長に何か確かめているようにも思えたが…。
ようやく長い電話が終わり、館長とサプロノフさんがちょこちょこと話したかと思うと、OKが出たよ!と私を美術館に導いてくれた。不思議なこともあるもんだなぁ?の思いもそこそこに通訳2人を引き連れても美術館鑑賞となった。
この美術館、スケールでいえば、国立京都美術館を想像してもらえばよいだろう。冷血の国?(失礼!)ソビエトでこんなしゃれたことが出来るとは…。
日本では100%不可能なことなのに…。

「なぜOKが出たのか」と確かめたところ、電話の主はイギリスの要人からで、館長にとってとても大事な用件だったが、「すんでのところでオジャンになるところを救ってくれたからそのお礼だよ!と言っている」とこともなげに言った。

交流ではこんな不思議な体験を幾度も味わったものだ。楽しい思い出の一コマである。

月刊『イグザミナ』 1988年11月号

月刊『イグザミナ』 1988年11月号