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「連珠を世界に!」ロマンの旅 29

国際棋戦の時代へ! 三つの国際戦から?

連珠国際連盟(RIF)の誕生(1988.8.8)、『RENJU WORLD』の発刊(1989.1)、連珠世界選手権の創設(1989.8)と続いた頃になるとスウェーデン、ソビエトでさかんに国際棋戦が催されるようになっていた。
そして、第1回連珠世界選手権京都大会を立派に成功させたが、日本連珠社主催の国際戦をぜひ開催して欲しいという要望は日増しに強くなっていった。
「我々連珠プレイヤーは日本にあこがれている。日本を訪問できる機会をもっと与えて欲しい」というわけである。

この要望に押し切られて開催されたのが「第1回東京国際連珠大会」であった。
その前に二つの国際交流に触れておこう。

レニングラード・ニュー・イヤー・トロフィ(ソビエト)=1990.1.2?

1981年から続いていたスウェーデンとの国際交流は、もはやスウェーデンだけでは許されなくなり、ソビエトから強い要請(いわば脅迫と言ってもよいくらいの強い調子で迫られた)が続き、抗しきれなくなって5人が参加することになったのが、このニューイヤートロフィーである。
(以下は『珠友』から)

早川八段を中心とした国際交流団が、年末から年始にかけてソ連のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)を訪問した。参加メンバーは総勢58名。日本から5名、スウェーデンから7名、オーストリアから1名の大きな大会となった。
戦前の予想は、早川八段とソ連のトップクラスとの優勝争いになるだろうと思われていたが、ふたを開ければさにあらず、ソ連のレベルの高さと壁を思い知らされたのであった。
優勝はモスクワのクラスノノソフ六段、早川八段はなんと16位に終った。

(大会経過は省略)


レニングラード・ニューイヤー・トロフィー 結果

1 クラスノノソフ6段  8勝1分け

2 レイミス6段     7勝1敗1分け

3 ベイデマニス5段   7勝2敗

4 コジン6段      6勝2敗1分け

5 メリティヨ4段    6勝2敗1分け

16 早川嘉美8段     5勝3敗1分け

23 田中忠義4段     4勝4敗1分け

35 達富弘之2段     3勝4敗2分け

56 澤井敏郎4段     2勝7敗

57 鈴木淳一郎3段    1勝7敗1分け

レニングラード・ニューイヤー・トロフィーを終えて
京都国際交流団監督 達富弘之

ソビエトにおける連珠の人気は極めて高い。正月休みで家族と過ごす人の多い日本もかの国も変わりがないと思うが、ソビエトの主だった選手のほとんどがこの大会に参加しているという。
スウェーデンからもスンドリングはじめ世界選手権出場選手全員が参加しており、ソビエトの実力を見るには絶好の機会である。日本からの参加も、早川八段、田中五段は日本の一流棋士だし、澤井四段、鈴木三段、達富三段も中堅としてレベル比較には絶好の顔ぶれだ。

会場にシニョフが現れた。先のストックホルム以来の懐かしい顔だ。初めてソビエトの選手と出合った88年の夏。河村七段、西園六段を擁しての選手団で1位、2位を確保、3位に入ったシニョフ、早川八段を破ったグルチョフスキーを強い選手だと思った。
彼らに、また、ノソフスキー君に聞いたとき「もっと強いのがごろごろしているので代表になるのは難しい」と口を揃えていっていた。

実際に、89年の夏、京都の第1回世界選手権の時、代表としてやってきたのは、ミカイロフ、ボブコフ、コジンの3選手であった。彼らの活躍は記憶に新しいところであるが、ノソフスキー君は「彼らはたまたま予選に勝ったに過ぎない。20人強ものもさが凌ぎを削っている。」という。
ソビエトの強豪と早川八段を軸に優勝争いは展開し、田中五段やスウェーデンのトップクラスがどこまで肉薄するかが見物であると思っていた。が、彼らはすでに中村名人に絞って取り組みを進めている。

先の世界選手権の時、次の東京までは日本のチャンピオンは続くであろうと予想したが「?」と訂正しておきたい。名人の技量は今のところ秀でているが、層の厚さではすでにソビエトが日本を凌いでいる。どのような新鋭が飛び出してくるか予測はつかない。
来年の第2回世界選手権に今回の顔ぶれかの中からソビエトの代表が選ばれるなら、名人は勝つだろう。が、代表選手がレニングラードで初めて出会う選手の時、私は喜びと共に身震いするであろう。

(1990.3.1『珠友』161号より)

成績表最後となった日ス国際交流の旅=1990.7.3?

1982年12月、スウェーデンに第一歩を記した国際交流の旅は、相互交流として続いて9年、今回が最後の訪問となった。発展的な解消とはいえ、スウェーデンびいきの私としては一抹の寂しさは隠しえないものであった。

最終回は達富ファミリー6名、早川ファミリー4名、プラス大井耕三五段の11名が出かけたのであった。
旅のもようはすべて割愛するが今回もまた充実したものであった。

(199.9.1『珠友』164号より)

余談1 
この頃から始まっていた達富弘之さんの「切り絵」は、今では「切り絵作家」と名乗るほどの見事な上達振りとなっている。

切り絵

余談2
この頃から本格的になり始めていた早川加代子の「ウォルドルフ人形」制作は、再度のスウェーデン訪問で火がつき、今では毎月定期的に教室を開くまでになっており、ウォルドフル人形作家としてかなりの人気を博している。

  早川加代子制作 ウォルドルフ人形「スウェーデン」↓
  http://www.success-simulation.com/waldorf/images/doll-world01.jpg

余談3
この大会でエントリーナンバー1と2を引き当てたのは、早川嘉美と早川光志。親子対決の結果は光志初段の快勝となり、会場がどよめいたのだった。私(嘉美)の真骨頂はここからで、後は勝ち進み、終わってみれば首位同星の2位。この頃から2位人生が本格化したのかも?。

第1回東京国際連珠大会=1990.10.6?

成績表先に記したとおり、各国の強い要望で開催せざるを得なくなった形で催されたのが「第1回東京国際連珠大会」で、3回まで開催されたがその後は打ち切りになっている。
この大会の開催をめぐって、本部東京と国際普及を進めてきた京都で意見が対立。なかなか調整が図れないまま開催された苦い思い出が残る。金銭面の負担に加え、人材難が大きくのしかかり、さらにわが国ではなかなか理解しがたい日程の問題(長期間にわたる)もあり、国際大会の開催は容易ではない。今も昔もこれは変わらないし、これからも変わらないであろう。
しかし、世界の連珠フアンに失望させることがあってはならない、という思いが強く、かなり強引な主張を言い続けたものだとちょっぴり反省もしている。

成績は次のとおり。

本年5月、東京では実に18年ぶりに国際戦が開催されたのは喜ばしいことである。

なお、この「第1回東京国際連珠大会」については、全対局譜を網羅して『連珠世界』別冊号が発行されている。

『連珠世界』別冊号